中部生産性本部の紹介
歴史
生産性運動
情報公開
生産性運動とは
 
1 生産性運動の果たしてきた役割
   1955年に始まった日本の生産性運動は、その時代の多くの課題に対して、積極的に取り組み、産業界労使・学識者を中心として国民的運動として展開されてきており、戦後の復興期から高度成長を経て、わが国は世界に冠たる経済規模を達成した。とりわけ欧米先進企業の経営を学習することによって経営の民主化、近代化を取り入れたことがその後の日本の高度成長の原動力になっている。

2 生産性運動は労・使・学(識者)協力により推進
   生産性運動の取り組みは労・使・学という三者構成によって推進されていることが特徴であり、とりわけ産業界における健全な労使関係づくりに生産性運動が果たしてきた役割と意義は大きい。当時、国際的には体制の異なる2つの思想的な流れがあり、わが国においても二分化していた。こうした中で、生産性運動は企業活動の場において労使が協力・協議してゆくことの重要性を訴え、多くの勤労者の共感を得て、今日に至っている。

3 中部の「生産性」活動 − 労使の信頼と協力関係づくりの半世紀
   中部の生産性運動は1956年(昭和31年)の中部生産性本部(当時は生産性中部地方本部)設立によりスタートしているが、当地域の生産性運動も当初は労使の信頼と協力関係づくりに力を入れた経緯がある。労使対等の場づくり、労使による勉強の機会、労使共通の土俵による問題への対処などを基本として、その時代の直面した企業活動をめぐる課題への対応、あるいはそのあるべき姿をめざして具体的な事業展開を図ってきており、そうした基本姿勢は今日まで変わってはいない。

4 生産性とIE・マーケティング活動の展開
   また一方で、企業経営の高度化のために現在では一般的となっている、数多くの経営技術やマネジメントの考え方が生産性本部派遣の視察団によって欧米よりもたらされた。中部においては、いち早くマーケティングやIE(インダストリアル・エンジニアリング)、あるいはロジスティクスの分野などを始めとして、個別のテーマによる様々な勉強会を通じて、その普及、拡大をはかってきており、とりわけマーケティングとIE活動に関しては、中部の生産性運動の一環として設立された中部マーケティング協会、中部IE協会がそれぞれ専門団体として現在も幅広い事業活動を行っている。

5 生産性運動の今後の取り組むべき方向
   これからの経済社会のあるべき姿を踏まえつつ、コンプライアンス・CSRへの対応などを含めた質の高い経営、企業づくりを支援し、一方では、勤労者のワークライフバランスを踏まえたこれからの働き方について提起してゆくことが重要である。
 また、モノづくりについても、モノやサービスを売ることについても、あるいは職場力の向上も基本はヒトである。ヒトづくりの問題は古くて新しい課題であり、産業界のみならず学校教育なども視野に入れて取り組むことが大切である。
 とりわけ中部地域は製造業が経済を支えているといわれるが、モノづくりはヒトづくりといわれる中で、生産性活動においてもグローバルな視野のもとに高度専門人材の育成をはじめとして人材の育成・活用の問題は今後も重要な取り組み課題である。

5 生産性活動をより広く社会全体へ
   生産性運動は、各企業レベルにおいては定着し、生産性向上への仕組みも確立しているが、グローバルな競争の進展や法体系の変化、あるいは環境・エネルギー問題など、企業内における労使の対応のみでは限界がある課題については、広く社会全体に問題提起してゆくことも重要であり、生産性の視点から発信機能を高めてゆく。
 この点については全国の生産性本部とも共有し、連携をはかり、中部のみならず日本の経済社会全体に展開してゆく。
 



雇用の維持・拡大
 失業をできる限り防止し、雇用機会を確保してゆく努力は、従業員はもとより、国民にとって生活を安定させるための大前提である。同時に経営にとっても雇用の安定は従業員の高い就業意欲を継続的に維持するための基盤でもある。
労使の協力と協議
 また、労使関係が悪化することなく労使が建設的に協議を行うことによって、生産性向上に資する取り組みを進めてゆくことは企業発展の原動力にとって不可欠である。労使が信頼感を失えば、労使紛争などの発生につながり無用のコストを生じかねないが、その一方で、従業員個人のモラールを大きく損なうことにもなりかねない。
成果の公正配分
 さらに、成果への貢献が公平に評価され、適切な賃金決定が行われることは、生産性追求への高いモチベーションを継続させてゆく上で重要な影響をもつ。成果の配分が適切に行われるならば、生産性向上によって得られた多くの成果は、従業員ひいては国民全体の福祉的な地位の改善につながるものである。
生産性の3原則/第1回日本生産性連絡会議決定 1955年5月20日